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Santa Maria de Iquique

旅行の話の前にちょっと「サンタ・マリア校の悲劇」の話を書きたいと思います。

19世紀終わりから20世紀にかけて、チリでは硝石採掘が盛んでした。
スペインやイギリス等の投資家が来て、次々と採掘場を開いていき、
たくさんの労働者が過酷な労働条件の下、砂漠で採掘作業をしていました。
その中でも一番の問題は「Ficha」と呼ばれるお金の制度。
給料は働いている採掘場でしか使えないお金で支払われたため、
他の街に行くことさえできず、実質監禁状態だったそうです。

そして労働者達はFichaに反対し、ストライキをしようということになりました。
多数の採掘場で働く労働者達が集合することに決めたのはIquique(イキケ)という
海辺の街。
労働者だけではなく、家族も一緒にストライキに参加することになり、
数万人がIquiqueに集まることになったそうです。

12月、各採掘場から2日や3日かけて砂漠の中を歩き、街に集合。
昼間は30度を越える暑さで、夜は零下まで下がる冷え込みの中、
歩いていくだけでも大変だったことでしょう。
ストライキの話を聞きつけた経営者側はもちろん良い顔をするわけがありません。
採掘場からの逃亡とみなされ、街に行きつくまでにも何人もの人が殺されたそうです。

ようやくたどりついた街の広場にはたくさんの労働者の家族が集まっていました。
街の住民達が「ここに集まられると生活に支障が出るので、
ストライキは今空いている学校へ移動してくれ」と要望したので、
労働者達は近くのサンタ・マリア校へと移動しました。

12月15日、サンタ・マリア校で経営者側・政府側との交渉を求めて
立てこもりが始まりました。
経営者側も政府側もまったく話を聞くつもりもなかったそうです。
そして、立てこもりが1週間になり、12月21日ついに政府が動きます。

「即刻仕事に戻らなければ発砲する」

話し合いを待っていた労働者側は納得できません。
そのまま動かずにいたのです。

そしてとうとう発砲されました。
その銃撃により3600人余りの方が亡くなられたそうです。
(まだはっきりと犠牲者がわからないそうです)
犠牲者のほとんどが労働者の奥さんや子供たちだったそうです。

その後、アルゼンチンなどに亡命した労働者もいたそうですが、
ほとんどの労働者は元の採掘場に戻ったそうです。
家族を亡くし、仲間を亡くしても労働条件は改善されなかったそうです。

Ficha制度が禁止されたのはそれから20年以上も経ってからのことだそうです。